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執筆者の写真松田学

自由な認識の権利とコロナ言論弾圧のディストピア~新しい政治の課題は「心の中のウイルス」免疫力の強化~

東京五輪は日本勢によるメダルラッシュ…あれだけ批判されてきた五輪開催ですが、ここぞとばかり批判を吹き飛ばすかのような頑張りをみせるニッポンアスリートたちの感動物語の連続に、知人からは「感動疲れ」との言葉まで聞こえてきました。


かたや「自粛疲れ」の日本を本格的に襲い始めたのがデルタ株。1人で8~9人にうつす、水疱瘡レベルの強力な感染力、「これまでにない新たな恐ろしい事態」…。ここまで来ると、人類社会もいよいよウイルスの本質に気が付くべき局面ではないかと思います。「ワクチンさえ普及すれば行動抑制は不要になる」というように捉えるべきものでもありません。


感染が拡大して人間の側で免疫が広がると、いずれ感染は縮小します。これはデルタ株の本国、インドでもそう。ウイルスは自らの生存本能に従い、自らの宿主である人間を大量に殺さないようにしながら変異を遂げていくことで感染力を強め、再び人間界に広がります。これを繰り返して、人間にとって例年の風邪やインフルと同様な存在になっていく。


これが収束へのプロセスです。本来、人間の力ではとめようもない感染拡大に一喜一憂する性質のものではないはず。インフルに対して適用していたら現在以上の大パニックが毎年起こっていたはずのPCR検査をやめる。通常のインフルと同様、発症者に医療資源を集中し、「感染者数」ではなく「死者数」を政策目標に設定し直す。こうして科学的基準を再設定することで、変異が永遠に続くウイルスのパンデミックは初めて終了します。


上記の自然の摂理を知る政権トップは、どうも今回の緊急事態宣言が終了する8月末をもって、こうしたモードチェンジを図りたいのが本音のようです。問題は「感染拡大=危機」と煽ってきたメディアによって形成された国民世論。だからワクチン推進政策になってしまうのですが、このワクチンのリスクについても世論を誘導する言論弾圧が露骨です。


言論の自由の本質とは「自由な認識を持つ権利」。今回は、人間の心の中にまで規制が及び始めた「自由」の意味についても、武田邦彦、上島嘉郎両氏の見解をご紹介します。


●感染拡大で自然免疫は強化…ワクチン接種開始後に増えている日本の超過死亡数

コロナ感染症に関する誤った認識がメディアから流され続け、国民にはコロナの真相が伝わらず、緊急事態宣言や人流抑制などの失策が国民の犠牲を大きくしています。これだけ謬見が社会全体を支配しているという現象は、近代では珍しいことかもしれません。


新型コロナのおかげでウイルス干渉によってインフルが激減し、昨年の超過死亡数がマイナス、しかも世界最大のマイナスだったこの日本が、今年1〜5月までの超過死亡数はプラス約3万人。日本でインフルは既に昨年1月から激減していますので、昨年のような、例年に比べてインフル死者が減ったという超過死亡数マイナス要因が今年からはなくなるのは当然ですが、気になるのは、ワクチン接種が進み始めた3月から増えていること。会社経営者でもある赤尾由美氏によると、「弊社でも忌引きが増えていますし、街中を走る救急車も増えているように感じます」。


ワクチンは、変異株の出現で有効性が低下する可能性があり、そうであるがゆえに、インフルワクチンは毎年、新しいものが注射されてきました。実は、100年前のスペイン風邪はインフルエンザだったそうで、より感染力の強い今回の新型コロナウイルスに置き換わるまで、つまり2019年まで100年間、変異を続けてきたことになります。


これに対し、新型コロナに自然に感染するとポリクローナル抗体の作用で何十もの免疫物質が体内に形成されるため、変異株にも強い免疫状態が実現するという意味で、こちらのほうがワクチンよりもずっと有効性が高いようです。自然免疫にせよ、ワクチンにせよ、それで感染がなくなるものではなく、重症化の比率が下がり、死者はさらに減るというのが、その効果。ウイルスの変異で感染が急拡大しても、それで自然免疫は拡大しますし、死者さえ増えていなければよいとの割り切りが必要でしょう。


ちなみに、7月29日に日本全国で陽性者数(≠感染者数)は1万人の大台に乗りましたが、この日の新規の死者数は13人、最近はこの近辺の数字で底這っています。


●実態はPCRによって演出されているに過ぎない脅威~感染症の基本を知ろう

以下は、現在の事態の捉え方についての私による整理と、井上正康先生(大阪市立大学名誉教授)からのコメントです。


①変異すればするほど感染力が強くなるので、ほっておけば、あっと言う間にほぼ全人口に感染が広がる。


②しかし、人々にとっては大半は無症状か、発症してもちょっと風邪ひいたかな、ぐらいで感染は終わってしまう。そして免疫が広がる。


③この中で、たまたま感染中の人がPCRで陽性になる。


→<井上先生>ハイ、風邪ウイルスを世界的にPCR検査しまくった初めての一年半でした。キャリーマリス(PCRを発明したノーベル化学賞受賞者)が存命なら、このようなPCRの誤用はなかったはずだと悔やまれます。


④その中で、免疫力が弱い人が重症になったり死んだりする。


・ハイ、これは全ての感染症の基本です。


⑤前記②によって得られた免疫で、多数のポリクローナル抗体が体の中にできるため、さらに①の変異が起こって新たな株が発生して感染しても、②のように気付かないうちに感染が終わる人が増えていく。


→<井上先生>その通りです。ポリクローナル抗体と同時に細胞性免疫の両者が免許更新されて、やがて無症候性感染者が圧倒的になります。因みに、毎年2月をピークに一千万人が発症して病人となるインフルエンザでは、その度に免疫力が免許更新されて、春には桜とともに無くなりますが、その背景には無症候性感染者が毎年6〜8千万人存在する可能性が考えられます。インフルエンザでPCR測定すれば「知らぬが仏」の驚異的感染状況が可視化されると思います。このインフルエンザをウイルス干渉で絶滅させた新型コロナの感染力はそれ以上と考えられます。


⑥それでも一部は重症化するが、その比率は低下していく。


→<井上先生>その通りです。それがお年寄りを中心に毎年130万人が癌をはじめとする大半の病気で呼吸器不全で冥途へ旅立つ渡し船に立っています。


⑦もし、変異株を国境封鎖やロックダウンで遮断すると、上記の過程を経ることができないので、十分なポリクローナル抗体ができていない。そこでワクチンや抗体医薬に頼ることになるが、特定の株にしか効かないので、結局、収束は遅れてしまう。


→<井上先生>その通りですね。但し、SARSやMERS, エボラのように、人間を速やかに死亡させる超強毒株では国境封鎖やロックダウンなどが有効です。


●実は医師たちも不勉強だった…社会の正常化へと立ち上がる政治勢力

しかし、このような感染症の基礎知識も、ワクチンによる深刻な副反応のリスクを真摯に指摘する見解も、この世に存在してはいけないことになっています。ワクチン接種で重症化しても、国民には駆け込む先がありません。「よくあること」、うちの病院では扱っていない…、厚労省も自治体も埒が明かない…、たらい回しに遭って泣き寝入り、副反応としてカウントもされない、これが日本国民が実際に置かれている実態であることを、参政党の医療専門家が先日、詳しく報告してくれました。


参政党には医師や医療従事者である党員たちが組成している「医療チーム」があり、彼ら医療専門家たちは、例えば井上正康先生と私の共著「新型コロナが本当にこわくなくなる本」などを踏まえて議論した結果、かつては上久保先生、最近では井上先生や私が主張していることが正しいということで合意してくれたようです。


コロナをテーマに過日、都内で開催された参政党東京支部のタウンミーティングの講師は井上先生と私でしたが、このペアによるこのパターンの講演会が最近、増えています。この日の議論で特に焦点になったのが、ワクチンのリスクに関する米国ソーク研究所の研究結果。これは、およそ医師資格を有する専門家なら、この論文を読んだだけで絶対にワクチン接種などしなくなるはずのものだそうです。厚労省もこれを読んでいないはずがない、では、この論文についてどう考えるのか、このことを政府に突き付けるべきではないか、それでも某大臣は「デマ論」を続けるのか…。


議論はさまざまでしたが、一つの考えは、国会議員に働きかけて政府への質問主意書を出してもらうことか…?ただ、国会議員もほとんどが不勉強ですし、自らの立場を優先してしまう点では巷の医師や専門家たちと同じでしょう。結局、国民の命と健康をグローバル利権から守るためには、新しい政治勢力を今こそ立ち上げて、急いで動きを創っていくしかないということになりました。


メディカルチーム主導の同様の場が神戸でも開かれ、ここでも同じような結論に至りましたが、特に心強かったのは、医師や看護師といった医療従事者や薬学の大学教授などの医療専門家たちが、それぞれ自らの研究や分析をプレゼンしたり意見表明をして、井上先生や私が日ごろから発信している内容を強力にサポートしてくれたことでした。


医療専門家たち自らが、新型コロナのこともワクチンのリスクのことも「実は、多くの医者は知りません、不勉強なんです」と告白。その意味で、医師たちにも科学的な知識に対する目覚めを起こさせている井上先生の役割は大きいといえます。このイベントでは、同調圧力のもとでワクチンにどう向き合うかなど、コロナ禍で蔓延する全体主義の理不尽さに対する切実な声が次々と上がっていました。


私や井上先生から呼びかけたのは…この世の中で、子どもの命をあずかるお母さんたちほど強いものはない、結束してメディアや行政にも声を。「新型コロナがこわくなくなる本」を一人100冊購入して周囲に拡散を。政治的なまとまりがなかった中小の飲食業界の声を衆院選に向けて結集し、政治的な声にしてほしい。


正しい知識を国民に普及してコロナで狂った世の中を正常化する、パンデミックのもとで着々と進行するグローバル全体主義の動きに対抗して、自由社会と健全な常識を守り抜く国民国家という軸を打ち立てる、コロナをチャンスとして次の新たな国づくりに向けた政治勢力へと、ともに歩んでいこう…。終了後の懇親会も含め、私も檄を飛ばすことになりましたが、参政党の決起に向けて、今回は一種の政治集会になったかもしれません。


●日本だからこそ描ける東京五輪開催の意味~国別の入場行進をすべきではなかった

さて、過日、科学者である武田邦彦先生と松田政策研究所で対談をいたしましたが、東京五輪と、今回の本欄で触れている「言論弾圧」に関して、大変興味深い発言をしています。まず、東京五輪については、日本で開かれるオリンピックであるからこそ、国別の入場行進などすべきではなかった。そして、言論については、「言論の自由」とは本来、言論をする側だけの問題ではなく、言論の受け手側における「自由な認識の権利」から考えねばならないものであることが忘れられている…。


武田先生によると、人間の大脳皮質は、25歳までに入った情報で作られた価値観で凝り固まるようにできているそうです。それに合わせて、「ウソしか言わない」地上波TVが情報を刷り込んでいくと…どうも日本人は、何らかの世界的な計画が立てられると最も洗脳されやすい民族なのかもしれません。コロナに関する正しい認識に基づいた言論が大手メディアやネットで徹底的に弾圧されている中で、国民のほとんどがメディアで流される「感染者数」の数字を本当に危機的と感じ、早くワクチンをと、われ先にと走っている…。そんな姿をこれ以上見なくても済む日が早く来てほしいものです。


まず東京五輪について武田先生は、「19世紀末にオリンピックをクーベルタンが再開した時は、スポーツを通して戦争をなくしていくことが、その目的だった。ギリシャもそうだったが、裸になって競技することで戦争を解消していくのが本来の趣旨。それが近年、政治や経済にまみれるようになってしまった。現在の国際情勢は決して平和的な路線とはいえない。だからこそ、この際、日本が思い切って『平和のための五輪』を掲げるべきだった。五輪のときにコロナがどうのというのは井戸端会議のようなもの。」


「国としてどうかを考えると、開会式での入場は国別ではなく、IOC会長が、皆さん、国旗を背負っているのではないと演説し、五輪が終わったら、対立を解消させるようにしましょうと呼びかけるべきもの。かつて英国で第二回目を開催した際に、米英で対抗意識が出てトラブルも発生したが、英国国教会の大司教が両国の関係者を集めて、五輪は平和のためなのだから、そういう対立は解消すべきだと演説した。五輪ではそれを繰り返すべきだ。それを日本こそがやるべきだった。」


「競技では国別でも、平和国家の日本だからこそ、国別という雰囲気をなくすことをすべき。四年に一度の選手の思い、それで緊迫した良いところが人間として出てくる、そこを強調すべき。そういう話は今の政権からは出てこない。平和のためのスポーツの祭典として世界の誰もが出てほしいと。せっかくの機会を逸してしまった。」


●言論の自由とは受け手側の「自由な認識を持つ権利」である

そして、最近目に余る言論弾圧については、「トランプ大統領の当選がきっかけだった。当選を認めるのかという声がインテリ層を中心に出た。これには失望した。選挙の結果が民意だ。そうでないなら共産党政権になる。当時の反トランプ勢によって、『選挙が民意』が米国で崩れた。昨年の大統領選での不正は、当時のトランプ当選が作ってしまったもの。」


「民主主義とは本来、Aが正しいということになっても、Bが正しい人がいるということを認めること。米国が民主主義の国だと思っていたら、違っていた。現在の言論弾圧は第二次世界大戦前のドイツと同じ。そのことを指摘すると『陰謀論』とされる。」



「第二次大戦で検閲があり、戦後、もう言論への規制はやめようとなったもの。学校では、言論の自由を小学校から習ったものだ。しかし今や、これを言ってはいけない、あれを言ってはいけない。言論統制は必要だと言う言論学者がいるが、その論拠は、ネットにおいて特定の個人をバッシングしてはいけない、ここから来ている。それはもっともだが、だからといって、巨大メディアによる言論規制を正当化するものではない。」


「問題を『言論の自由』を言う人の側からみている。聞く方の自由のことを見ていない。『聞く方が公平な情報を得る自由を持っているか』、そこから見ていない。戦前の日本では間違った情報をもらった人は『鬼畜米英』という概念になった。それでは聞く人の基本的人権がないことになる。自分の言論の自由が侵されることへの怒りはあるが、それによって国民の情報が制約されて失われる国益は言われていない。」


「親の形質を引き継ぐのが遺伝だが、他の動物と異なり、ヒトの場合、生まれた時には大脳皮質に何も入っていない。人類が700万年前に誕生した時に、今まで人間が生活してきた知恵がどれも遺伝されていかないようになってしまった。人間が生活してきた知恵が引き継がれないように人間はつくられている。親から引き継ぐ知恵がないから、25歳までに集中的に身に着け、脳はそこでいっぱいになる。25歳までに価値観を決めてしまう。」


「戦後教育を受けた人は全部、朝日新聞。教育と情報提供をマッチさせたのが朝日新聞だった。そして、25歳までにできた脳にとって心地いい情報を流す。いったん方向性のある教育をしてしまうと、メディアがそれに乗るので、それで固まっていく。団塊の世代が死なないと、日本はダメ。教育は、どのようにものを考えるかを中心にやってほしいもの。」


「これだけテレビやネットが発達した以上、受け手側は受け手側の権利を主張してほしい。学校で基礎的な頭を25歳までにつくる、そこに心地よい情報を流すと、それで世界を支配出来てしまう。それが最近、目立つようになっている。グローバル全体主義勢力による世界制覇ができる段階になってきた。世界的な計画を立てたら、日本のメディアが動き、それで教育となると、人間ではなくロボットになる。」


「江戸時代まで鎖国していたので、かつて日本人はよく考えていた。それが開国と明治維新で、白人コンプレックスに。欧州は日本より遅れていたのに、そこに間違いがあった。我々が情報を得る自由として言論の自由を考え直さねばならない。誰にも、自由な認識の権利がある。国民に正しい認識をしてもらうために、国が配慮しなければならない。」


「コロナの前から、地上波というのはウソしか言わない。本当のことは差し障る。世間がそう思うことだけを選ぶ。テレビタックルとは何度も喧嘩した。学者として自分には自分の考えがあるのに、それを変えろと言ってくる。反政府のスタイルをとって政府の悪口を言わないというやり方をみんなとっている。そこで、テレビの隠し事が増えてきた。そして皆がネットに流れるが、そちらも叩き潰せとなる。しかし、どうせみんなバレる。ネット世代の若者が成長すると変わるだろう。ここまで弾圧されると皆が気付く時が来る。」


「日本は一流国として、自由な言論を国民が作れる場を確保しなければならない。国がカネを出してもよい。人間の認識を間違わせるのは、それ自体が犯罪だ。これに刑法的に対処するのも一つの方法である。」


●LGBT問題に見る「心の中」まで規制する全体主義のディストピア

心の中の「認識の自由」にまで関わる問題として、もう一つ、元正論編集長の上島嘉郎氏が、LGBTに関して松田政策研究所で行った発言が重要な論点を提起しています。


「自民党の法案はLGBTへの理解増進が目的だった。問題になったのは、性的指向や性自認を原因とする差別は許されないという言葉が盛り込まれようとしたこと。これには恐ろしい要素がある。その人の個人の認識に周囲が同意しなければならないということ。」


「セクハラもそうだ。これは、女性がただ不快に感じたら法律に触れるという恐ろしいこと。ある男性の行為を好意と受け止めるかどうか、その人がそう思っているということが絶対的な根拠になるなら、周りは分からないし、そこに罰するという力が働く。性自認だと、こちらにそういう意図がないのに訴えられる可能性がある。差別しているつもりはないのに、向こうがどう思うかで決められると、人間関係が成り立たなくなる。」


「このことを一方的に追及する社会が健全なのか、心の内面にまで入るのを認めるのか。これを避けよう、そのためには人と付き合わないようにしよう、それで社会のきずなは失われていく。人間関係を支えているものが、ただの機能になってしまう。」


これはLGBTが、逆に、社会から疎外されるようになることを意味するものです。


「天下の悪法だった治安維持法も、人の心の内面にまで踏み込んで、とは考えていなかった。マルクスを読んでもよかった。問題はそれをもって社会を破壊する行為であり、それは取り締まるというもの。当時の指針を読んだら、そう書いてあった。人間の内面にまで踏み込むことはできないと書いてある。人間個々の心の中を全体的に一つの力で決め込んではならない。それを求めるのは、人間を改造することになる。」


「これはまさに、オウェルの『1984』で描かれたディストピアだ。心の中から思っていなければならないという世界になる。LGBT差別論はそこまで行く。ウイグル弾圧、北朝鮮もそうだ。多様性を掲げて主張する人ほど全体主義につながる可能性が高い。」


「日本社会は元来、少数派を徹底的に追い込む社会ではない。欧州ではキリスト教が背景にあって同性愛は禁止だった。同性の性行為は犯罪だった。多数のゲイの人たちが刑を受けた。『ソドミー法』は自然の摂理に反する性行為は許されないとした。対する日本は、犯罪として追及して刑罰を科すことは、ほぼやったことがない。明治に男性同士の性行為禁止という規定が一時出来たが、すぐに廃止された。」


「制度化されているなら差別だが、内面においての違和感、距離感を思うことを罪とすれば、誰とも付き合えなくなる。欧米では法的な必要性が高まったから、こういう罰則を科すという文化、そういう国々だから、やりすぎだというところで出てきている。」


「それを価値観の異なる日本に置き換える動きが出るのは、自画像を失っているからだ。人間関係を窮屈にして希薄にしていく。その結果が、国家が個人を管理する社会となり、全体主義に進む。意図とは逆の方向に進むことに気付くべきだ。」


新型コロナウイルス禍は、いずれ収束するでしょう。いつまでも変異を繰り返すRNAウイルスが相手ですから、どこかで線を引いて人為的にパンデミックを終了させる局面がこれから訪れると思います。その時期は、ウイルスに対する正しい認識の普及がどの程度進むかにもよるとは思いますが…。


しかし、コロナ禍は収束しても、すでに1年半以上にわたって人々の「心の中」に埋め込まれ続けたディストピアへの陥穽は、いつまでも「自由」の拘束へと人類社会で作用し続ける可能性がある、そのことを懸念します。コロナウイルスとは共存するしかありませんが、こちらの「心の中のウイルス」こそ、私たちが「ゼロコロナ」に向けて絶滅させていくべきものではないでしょうか。



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