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ポストコロナと「大東亜」新秩序~戦後3四半世紀を経た利他と平等と協調の思想~

  • 執筆者の写真: 松田学
    松田学
  • 2020年8月16日
  • 読了時間: 10分

暑さがうだる日々、コロナよりも熱中症のリスクのほうが高いのに、マスクをはずさずに道を行く人々に思わず声をかけたくなるのは私だけでしょうか。集団免疫説への支持が広がっています。説明すれば胸にストンと落ちる方が多く、国民も気づき始めたようです。


正しい事実が伝えられないことで国民が正否の判断を誤っている事例としては、日本の歴史認識問題もあります。今年の8月15日は終戦後ちょうど3四半世紀を経た終戦記念日でしたが、毎年、参拝のたびに考えさせられるのは、先の大戦とはいったい何だったのか…。松田政策研究所チャンネルでは3人の発言者による特集を組みました。そこからは、大戦の歴史的な意味と日本が世界のなかで実現をめざしてきた価値について、認識を新たにさせられる史実が次々と浮かび上がりました。


一日当たり死者数では熱中症がコロナを上回っているにも関わらず、その熱中症の原因にもなるのが、人々がコロナ対策として強要し合っているマスク着用。外出時のマスク姿は、国民から健康と命を守るための常識的な判断力まで「コロナ脳」が奪ってしまったことを象徴するものかもしれません。陽性者を感染者と喧伝するメディアの罪は深い…「東京都民バイ菌扱い」の差別と分断を国民の間に生み出してしまいました。おかげで経済停滞は長引き、go toキャンペーンの失敗で安倍政権は支持率を落とす…。靖国神社も例年より混んでいました。地方に帰れない?マスク姿の参拝者がソーシャルディスタンスのマークを路上につけた拝殿までの道で、暑さに耐えながら長い列をなす光景がみられました。


●日本が大東亜でめざしたものと作られた大戦の歴史

「二度とこうした惨禍があってはならない、平和を祈念する」、「多数の英霊たちの犠牲の上に戦後の日本の平和と繁栄があることを忘れてはならない」…これが終戦記念日に表明される、お決まりの日本国民の思いですが、私が靖国境内での某チャンネルのインタビューで申し上げたのは、そこから一歩踏み出して、これからの日本への決意に思いを致すのが、戦後75年、3四半世紀を経ての靖国参拝なのではないかということでした。


形の上では侵略戦争だったが、現実は、日本が戦争を起こすよう追い込まれたものだった…このことは、近年、さまざまな国際的な検証で明らかにされています。しかし、先の戦争を太平洋戦争ではなく、大東亜戦争として捉え直してみれば、もともとの日本の思いとは、19世紀的な植民地支配秩序から脱し、白人も有色人種も平等で、各民族、各国家が自立した対等の関係に立つ国際秩序を形成することにありました。


それは力による支配ではなく、利他の精神、協調と調和の精神をもって新たな文明を築こうとする志であって、いままさにポストコロナに向けて世界が日本に期待するのはこれではないか。こうした「日本新秩序」を私たちが実現していってこそ、英霊たちの犠牲が報われ、先の大戦の歴史的な意味を日本が総括することになるのではないか…。そんな思いを私が抱いたのは、前述の終戦記念日特集での3人の方々との対談を通じてでした。


高校生時代に私が読んだ本、E.H.カー「歴史とは何か」には、世界で生起してきた無数の事実のなかから、歴史の編者が属する時代の独自の視点から意味ある事実を構成し直すのが歴史である、ゆえに過去の歴史は時代とともに変わるという趣旨の下りがあります。このことを最も痛感させるのが、先の大戦に関する日本の歴史かもしれません。


広島と長崎に原爆を投下した米国は、無辜の民の大量殺戮という点では、ユダヤ人を虐殺したナチスドイツにも劣らぬ人類史上最大の罪を犯した国だと糾弾されてもおかしくないでしょう。しかし、それでは戦勝国秩序は構築されません。原爆を落とされる原因を作ったのは日本であり、それはファシズムによる一方的な侵略戦争という大罪であったとの「歴史」を構築する必要がありました。それが戦後世界を支配した東京裁判史観…。


●ひ孫が語るA級戦犯東條英機の真実

靖国神社に祀られるA級戦犯といえば、東條英機。その直系ひ孫にあたる東條英利氏が東條英機を語った番組を終戦記念日に配信しました。そもそも東條内閣は対米開戦の回避を意図して作られた内閣、東條英機は開戦を悔やみ、最後まで自衛のための戦争だったと述べていた…。自ら権力を奪取して強権を行使したヒットラーやムッソリーニ、スターリンなどの全体主義独裁者とは異なる経緯や人物像が英利氏の口から語られています。


「特別な人ではなかった。日本人なら誰でも東條英機的な側面がある。当時の日本人を象徴するような日本人であった。個人的な損得ではなく、国全体を考えろ。明治の人たちは国をベースに損得を考えるのだなあ、そんなエピソードがある。子供に対してすごく理解が深かった。世界で唯一、児童疎開法を制定した。インドシナに進駐したときに、ゴムを軍需よりも子供たちの毬にと。上司としては厳しかったが、下々にはやさしかった。」


「首相になりたかったのかといえば、そうでもない。政治家などは水商売。軍人としての誇りのほうが強かった。想定外、晴天の霹靂だった。むしろ、退役しようとしていた。この国難のときに退役するとはと、怒られるかと思ったのが、逆に首相をやれ、だった。」


東條英機が内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長兼文部大臣…と、いくつもの要職を兼ねたのは権力の集中のためではなく、当時は総理大臣にもコントロールできない軍部の統帥権の問題があったからのようです。特に、陸軍と海軍の仲が悪かった。


「東條英機は『自己弁護はするな。すべての責任は私にある。しかし、国際法上、日本は無罪である』、そこだけは一貫していた。結果責任はあるが、原因はそこにないというのか、この大戦のむずかしさ。」いずれにしても、対米開戦はしないとの当時の昭和天皇の期待を受けてできたのが東條内閣でした。


「御前会議の夜、東條英機は自宅で皇居に向かって布団の上で正座して嗚咽していた。妻の推測では、そもそも日米戦争の回避が東條内閣誕生の目的だったのに、それができなかった、申し訳なかった…。回避できなかった無念さと、それを陛下に報告しなければならなかった悔しさ…。」


「東京裁判で合点がいかないところがある。陸軍悪玉論、海軍善玉論…海軍で実刑になった人は一人もいない。真珠湾攻撃や特攻隊等を考えれば、少なくともゼロ100ではないはず。陸軍はフランス式のあと、戦敗国のドイツ式を採り入れたのに対し、海軍は戦勝国の英国式を入れた。それがあるのかもしれない。(対米開戦へと突っ走った)山本五十六はイメージが今でも悪くない。公平性で何か腑に落ちない。」


東條内閣下での大東亜会議は、アジア諸国の代表が史上初めて会した場。歴史上初の平等宣言も出しました。「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」とは、利他と平等と協調の思想であり、日本は、これら価値観による調和を国際社会に生み出すことをめざしていた国でした。


●リアリズム無視の希望的観測、全体よりも部分最適…戦略性の欠如が招いた戦禍

日本を対米開戦に追い込んだ山本五十六に対しては、松田政策研究所で同じく対談をした樋口隆一氏の祖父、樋口季一郎・陸軍中将も強く憤っていたようです。宣戦布告なき真珠湾への奇襲は大義名分なき戦争であり、そのことによって日本はこの戦争に負ける、「敗れて然る後に戦う」愚かさを樋口中将は指摘しています。ソ連が中立条約を破って対日参戦をするとの情報に耳を貸さなかった大本営にも怒っていた樋口中将は、欧州やロシアに精通していた戦略家。ポツダム宣言受諾後に千島、樺太に攻め入ったソ連との闘いで、北海道を占領せんとするスターリンの野望を挫くことに成功しました。


ソ連が日本降伏のどさくさに紛れて北方領土に急遽、侵攻した目的は言うまでもなく、これが第二次大戦の正当な結果だとするため。いまでも日本が領土を取り返せない根拠になっています。樋口中将は、ロシア人は個々には好人物だとしても、国家となるとソ連もロシアもとんでもない国であることを見抜いていました。そして、日本軍が密かに期していた本土決戦(本土上陸に対抗する水際作戦で米軍は100万人の犠牲者)の誤りも指摘。


つまり、米国は「勝って然る後に戦う」との戦略をわきまえた国であり、本土進攻は空襲、艦砲射撃、そして原爆投下で日本を徹底的に叩きのめした後のことと予測していたわけです。現に、当時、米国は広島長崎以外にも原爆を10個以上、用意していたようです。


大和や武蔵といった誇るべき大海軍を維持するためには、ABCD包囲網で石油が絶たれた以上、米英と戦わざるを得なかった…こんな部分最適の論理で日本全体を米国との戦争に引き込んだ山本五十六は、米国と戦っても一年は善戦すると述べていたそうです。それ以上は敗けることがわかっていたのなら、あまりに無責任!樋口中将は断じていました。


その樋口中将も、首相になる前の東條英機の大陸における「拡大工作」には猛批判。彼の親友である石原莞爾は「不拡大方針」を掲げ、東條と対立していました。ただ、日本が中国との戦争にのめりこんでいった背景にも、あのソ連による策謀がありました。


●大局をみればコミンテルンの世界共産革命こそが大戦の真因

ここからは、兵法家の家村和幸氏と行った当チャンネル、1時間ものの対談番組をご覧いただければと思います。同氏が示す歴史観によれば…、19世紀の欧米列強による植民地支配の時代が「近代」。有色人種が初めて白人を負かした1904年の日露戦争から大戦の時代に入り、1937年の支那事変から始まる大東亜戦争はその流れのなかに位置付けられる。その終結は旧日本軍2,000人がともに戦って勝ち取った1949年のインドネシアの独立。以後、世界は植民地の独立と、どの国家もが対等な「現代」に入った…。


日露戦争の結果、弱体化したロシア帝国は、第一次大戦中の1917年にプロイセンの策謀もあってロシア革命で倒れ、共産主義の道へ。これが第二次世界大戦につながります。コミンテルンはすでに1932年に、日本、米国、英国、ドイツ、イタリアの列強をそれぞれ対立させ、世界共産主義革命を達成するとのテーゼを打ち出し、35年には、日本とドイツを共産主義化することと、日本の共産化のためにシナを重用する決議もしていました。この戦略のもとに、日本は中国との泥沼の戦争に引き込まれていきました。


日米の太平洋戦争が、米ルーズベルト政権と、そこに多数のスパイを送り込んでいたコミンテルンとの共謀で引き起こされたものであることは、ヴェノナ文書などさまざまな資料によってすでに明らかにされていることです。その決定打がハル・ノート。


この戦争も昭和天皇の英断による無条件降伏で、日本の共産革命のシナリオは崩れましたが、ソ連崩壊のあとも、コミンテルンの世界戦略の意図は中国共産党に引き継がれているとみてよい流れが世界には見受けられます。


前述の1935年の決議のなかに「共産主義者は身分を隠してブルジョア機構の中に潜んで活動する」とありますが、これはまさに現在の中国による「超限戦」、Silent Invasionを想起させるもの。米国で噴出している「アンティファ」やblack lives matterなどの左翼の動き、日本における反日メディア等々、ポストコロナに向けてますます強まるかにみえる自由主義と対立する動きには、単なる陰謀論では片づけられないものがありそうです。


●「大東亜」秩序から「日本新秩序」へ…新たな地球文明を先導する国づくりを

このように歴史を大きく俯瞰してみると、ポストコロナにおける日本の役割が明らかになってくるような気がします。1945年の終戦後、1970年までの最初の四半世紀は高度成長と、1970年の大阪万博を頂点とする欧米キャッチアップの25年でした。


次の1995年までの四半世紀は、ニクソンショックやオイルショック、これに伴う成長の屈折に見舞われながらも、これら苦難を克服することで世界の黒字大国、バブルが象徴する資産大国として、欧米から警戒まで呼ぶまでに日本経済の相対的な地位が頂点を極めた絶頂の25年でした。そして次の1995年の阪神淡路大震災から始まった四半世紀は、その後も相次ぐ自然災害や超高齢化、不良債権処理やデフレなど、日本が世界が直面する課題を一挙に背負う「課題先進国」として逡巡と低迷を続ける25年となりました。


この四半期の最後の年に世界を襲ったのが新型コロナ。これをきっかけに、次に来る四半世紀は、人類社会全体が次なる秩序への模索を本格化させる25年になるかもしれません。


ここで日本が20世紀初頭以来、世界のなかで実現しようとしてきた価値が改めて見直され、それをもって日本が世界の新たなる文明の先導国として、私たち先人の思いを実現する時代が到来すると考えたいものです。


「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」大東亜戦争は、欧米列強の利害やコミンテルンの世界戦略によって、日本が図らずも巻き込まれていった戦争ではありました。しかし、そのなかで日本がすでに提起していたものの、戦勝国の思惑のなかでかき消されてきた独自の価値をもう一度、虚心坦懐に見直し、日本のこれからの国家路線へと結実させていってはどうでしょうか。それはきっと、世界が求めることになる新秩序であろうと思います。

 
 
 

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